カナリヤ

 Monday's child is fair of face,   月曜日生まれのこどもは器量がいい
 Tuesday's child is full of grace,  火曜日生まれのこどもは上品で
 Wednesday's child is full of woe,  水曜日生まれのこどもはべそっかき
 Thursday's child has far to go,   木曜日生まれのこどもは旅に出る
 Friday's child is loving and giving,   金曜日生まれのこどもは愛を与え
 Saturday's child works hard for a living,  土曜日生まれのこどもは働き者
 And the child that is born on the Sabbath day  お休みの日に生まれたこどもはね 
 Is bonny and blithe, and good and gay.      可愛くて、明るくて、気立てがいいんだよ    



私は木曜日に産まれた。上の詩によると、遠くに旅に出る子らしい。旅は好きだ。
マザーグースを小さい頃に読んで、死とかいなくなっちゃったなどの訳詞に、どうしてもこわくなり図書室で泣いたのを憶えている。
今読むと、逆にフィットする。たとえば気持ち悪さとか、こわさや失う感じ、着地点のない圧倒的な浮遊感は現代に生きる今の感覚と どこか同じだと思う。

寓話なのに、事実という感じがする。このあいまいに気持ち悪い感じ、鈍い痛みが、今は嫌いではない。

生きていると、ラインを付けられないこともあり、見つけ引き、また見失うの繰り返しだ。決着をつけたいと思うのにまだ先は遠い。

マザーグースは、人間のあいまいな部分を そのままを分解し寓話に散りばめ、軽妙に練り込んでいるのだなと、大人になった今は、そう解釈している。

AFP通信。ある男性の記事。ひとりで生きるのに慣れてきた、と書いてあった。

カナリヤの文脈を見て、なぜか上の詩を思い出した。この男性は何曜日生まれだろうと思った。

この男性に関しての記事はさまざまな所で、悲観的にあるいはドメスティックに報道されているけれど、ゆかねえとAFP通信の記事が1番ありのままだねと話した。

決める最終的な権利は本人にあるし、感想としては「その人がそこに生きていて、動物たちと暮らしている。そのことが尊いとも尊くないとも思わなくて、ただ事実がそこにあるだけ」だ。

ただただ、それだけ。生きていることだけが、ああ私達と一緒だとおもうだけ。

行ってみないとわからないことや見届けたいことが今は多く、そのことを今、受け止めて向き合い寄り添うことしかできない。

向かう先はまだ見えないが、行けばわかるさ精神だし、とことん行ってやるよという極道メンタルだ。




産まれた曜日の調べ方



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