少し前に、知人を通してある避難所の世話人と知り合い電話で話をした。

津波放射線被害、両方ある地域で、しかしさまざまな理由でその場所から離れることのできない人々、50名弱がいるとのことだった。

私は薄い長袖のカットソー1枚だけを着ていて、もう震災からずいぶん経っている頃だった。

足りないものはないかと尋ねると

「まず米や味噌などの食料。炊飯器、水、衣類、毛布。あと甘いものが欲しい。」

正直に言って、驚いた。「まだそこですか。」と正直に尋ねると、「まだそこです。」とひとこと答えられた。

世話人の持つ線量計は常に鳴りっぱなしで、世話人も行政も、移動しなさいと指示しているのだけれど「とても頑固で全く動こうとせず困り果てている」らしかった。

しまいには行政から、勝手にしろとの通達があった。世話人はいらいらしていた。「どうしたらいいものか。」

かなり遠い場所であったし、荷物を送るにも制限のある場所でいわきにいる私に出来ることは少ないと判断して、その地域に近い支援団体を見つけ、物資を送ってほしいと世話人の電話番号を教えた。

先日その世話人から連絡を頂いた。久しぶりだった。

世話人も人々も元気とのことだった。人々の人数は、さすがに減っているだろうと思いきや増えていた。

避難先で不自由な思いをし帰ってきてしまったり、ミイラ取りがミイラになった人々もいるようだった。

危なく不自由なところに、なぜ人が増える?と、私は少し いらいらした。

彼らのことは頭の片隅にあったし、連絡をしても折り返しがなかったり圏外だったりして、連絡が取れても「足りないもの」の話のみ。まさか増えているとは思わなかった。

少しでもみんながまとめて住むことのできる移住先を探していたのは前に聞いていて、それらが決まり、彼らの仕事に必要であった船などを安く手に入れるために世話人とその仲間は ノルウェー、釜山、パキスタンの三国とロシアに出向いていたそうだ。

安心した声色で「船も手に入ったし、いろいろなことが やっと決まりました。」と言っていて、私は「心にも物理的にも、長い旅でしたね。」と答えた。

淡々としていて冷静な印象だったその人は、かなり能動的に動かれていたようだった。

どうやらその人自身はこれから からだひとつで動くようで、「移動する人生になりました。」と言い、「いつかお会いすることがあると思いますので、そのときはきっと、お話を聞かせて下さいね」とお願いした。

いつかきっと元気で会いましょう、と電話を切って、ため息がでた。