きのこと遠回り

きのこが好きだ。
見た目がかわいいし、煮ても焼いてもおつゆにしても、何をしても美味しい。なにしろもう好きなのだ。

アニメやキャラクターのきのこではなく、リアルに生えてくるきのこがいい。小さいものから大きなものまでいろんなかたちで生えてきて、じっと見ていて愛おしい。

昨日、夕方に散歩をしていて見つけた、ミクロきのこ。苔のなかにまぎれてひょっこり生えていて、5ミリくらいしかなかった。ほんとにかわいい。なんていうきのこなんだろう。

しゃがみこんで写真を撮りながら、ちっぽけ加減において、このきのこも私も一緒だなと思った。ただ生えて、そこにいるだけ。

いつかなめこの栽培をしてみたいと思うのだが、ここが少し難しいところで私は「ぶつぶつ恐怖症」で、ぷちぷちしている丸いものの塊の見た目が苦手なので、きっとその塊と目を合わせることから練習しないと無理だと思う。

鳳翔の杏仁豆腐に乗っているあれは、行儀が悪いと思いつつ基本のけてしまう。タピオカは見なければ美味しい。カエルの卵は、もう文字を打つだけで無理だ。

さりげなく写真の苔の感じも無理だ。

でも男のひとの不精ひげは愛している。矛盾だと思うけど仕方ない。好きだから。

散歩だったり、道を歩いていると、きょろきょろして興味のある道に迷いこむ。私はかんたんに道に迷う。

看板とかゴミ箱、商店とかなにかの色で手がかりは憶えているし、迷ったらつかう合言葉「道はつながっている」でたいていのことは何とかなっている。

遠回りも好き。普段通らない道に入ってわざと迷い、遊んでいる。子どもっぽい30歳だなと思う。

せるように毎日を暮らしているわけでもないけれど、なんとなくつまらないな、と思い時間があるときは、遠回りして家に帰ってみると何かを見つけたり、誰かに出会ったりして

どこか脳みそが探しているのだろうけれど、そんな時は何かを見つけられることがとても多い。

先日ものすごく真面目に書いた手紙の返事がきた。

トウキョウソナタの「だれかわたしをひっぱって」という台詞を思いだした。

日常のどうしようもない苦味が重なるということ、そのなかにでも灯る小さな火のこと。

ひとの心は本当に複雑だ。渋くグレーな日常を送りつつ夜中に妙なメールをよこしてきたと思ったら、次の日にはあんなにも豊かに痛々しくリアルに自分のことを書いて送ってくれる。

見届ける、そう。見届ければいいと思う。

映画の中の小泉今日子の、あの地味で静かな感情の重なりは、きっと誰にでもあることだ。痛いけれども、日常は流れ、ご飯は作るし子どもをじっと信じたりする。

あの赦しは、母親の大きさと言うよりも、人間としての業による深みなんだと思う。

たんたんと暮らすそのなかに、火は必ずあるし生きているし、彼女は大丈夫だと思った。